かわせみリポート

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カテゴリ:震災ボランティア( 8 )

「アレ」から2年がたちました

 「アノ日」から二年目の3月11日が、あっという間に過ぎてしまいました。
別荘のリフォームの現場でラジオを聴きながら、「アノ時間」に黙とうをしました。

 石巻の蛤浜の人たちはどうしているだろうか…。
気にはなるけれど、今の私は、すぐに行くことは出来ない。

 報道では「動き始めたコト」や「止まったままのコト」などを伝えてはいるけれど、
本当の「コト」は、行って、自分の目で見ないと分からないんだろうなぁ。

 今、私の中でも「アノ時」は止まっている。
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by kawasemi-report | 2013-03-13 00:17 | 震災ボランティア | Comments(0)

「アレ」から1年が経ちますが……

 3月11日には、震災の起きた時刻に合わせて、テレビやラジオの追悼番組で、黙とうを呼びかけていた。
私はテレビの指示に合わせて1分間の黙とうをした。

 そして、1年前の4月11日に、遠くから聞こえるサイレンを合図に、泥だらけになりながらガレキのかたずけをする手を止めて、震災から1ヶ月めの黙とうをしたことを思い出した。

 それと先日、NHKテレビの「鶴瓶の家族に乾杯」という番組で、岩手県の陸前高田市を訪れた鶴瓶さんが、
妙にハイな女の子に「お父さんは?」と聞いて、お父さんを亡くしていたその子に落ち込まれるというシーンを
目にした。

 私も、宮城県の牡鹿半島の付け根の蛤浜という小さな集落で、同じようにハイで、同じような目をした女の子に会ったことを思い出した。

 「アレ」から1年が経って、被災地は前に進んでいるのだろうか?

 「被災者の人たちから元気をもらいました」なんてことを言う人もいるけれど、本当にそうなんだろうか?

 蛤浜の人たちは、どうしているだろうか?

 犬小屋を作ってあげた、コーギー犬のマリンは、どうしているだろうか?
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by kawasemi-report | 2012-03-22 22:36 | 震災ボランティア | Comments(2)

宮城県の石巻に行ってきました(その6)

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 石巻での活動の前半は、専修大学のキャンパスにキャンプをしながら、毎日、
石巻市内の大街道という地区を中心に出かけて行って、泥出しやガレキの撤去をしたり、
緊急性のあるニーズの調査をしたり、といった内容の仕事をしていた。

 ところが後半は、「八ヶ岳ピースワーカーズ」が、その拠点を牡鹿半島の付け根の辺りに移したのを期に、
私とAさんもそちらに移動して、新たな活動をすることにした。
 牡鹿半島には入り組んだ入り江が多く、そこに点在する小さな集落をピンポイント的に支援していこう、
というのが、我々の新たなミッションとなったのだ。
 そして私の毎日は「蛤浜」という小さな集落に出かけていって、ガレキの片付けや、マキ作りや、
簡単な大工仕事をして、一日をその浜で過ごすといった日々になった。

 小さな入り江に15軒が暮らすその浜は、カキの養殖を業とする集落で、きっと「美しい漁村」
だったに違いないと思われた…。津波さえ来なければ…。
 そう、津波によって浜にあったカキの処理施設などは流され、代わりに何処からか流れ着いた、
トラックのタイヤがギッシリ詰まったコンテナなどが打ち上げられていた。
 家々は、斜面の上の何軒かは波は免れたものの、浜に近い方は、
基礎を残して完全に無くなったもの、メチャメチャに破壊されたものなど、壊滅的被害だ。

 それでも人々は、斜面の一番上の集会所のような建物に寄り集まって、
山からの水をドラム缶で沸かして、行水的なお風呂にも入っていたりと、負けずに暮らしているようだった。
 震災によってサバイバル状態となった今、街場の人より、ここの人たちのほうが強いのかも知れない。

 私は、ガレキとなった家々の木材を片付けながら、お風呂のマキを作ったり、
家を失ったコーギー犬の「マリン」の小屋を作ってあげたり、
入り口がカーテンだったお風呂小屋にドアを付けたりと、木を扱う作業でお手伝いが出来て、
しっかりボランティアな日々をおくることが出来た。

 浜の人たちも打ち解けてくれて、「お昼だよ!」などと必ず声を掛けてくれて、
集会所で食事をご馳走してくれた。今年から小学生の、シャイなKちゃんも遊んでくれたし、
ちょっと恵まれ過ぎたボランティアな日々ではあったけど…。

 カキは種付けをしてから収穫まで3年はかかると言う。その前に、
海に沈んだ大量のガレキを引き上げなければいけないし、放射能の海洋汚染はどうなるんだろうか…、
はたしてこの浜は「美しい漁村」に戻れるのだろうか?

 私が帰る前の日に、別れを惜しんでくれた「蛤浜」の人たちに、私は、
「お元気で暮らしてください」としか言えなかった。「頑張ってください」なんて言えなかった。
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 今回で震災ボランティアの話は終わります。また、一連の写真は、同行のAさんに提供していただきました。
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by kawasemi-report | 2011-05-29 02:54 | 震災ボランティア | Comments(2)

宮城県の石巻に行ってきました(その5)

 私が石巻にいた、震災から1ヶ月のころに、大きな余震があった。d0227858_0321071.jpg
 
 夜、テントの中で眠りについて間もなく、寝床(地面)の下から、
突き上げられるような、衝撃的な揺れを感じて、飛び起きたのだ。
 サイレンが鳴って「津波警報が出ました。すぐに避難してください」
とスピーカーが連呼し始めると、それぞれのテントから飛び出した、
大勢のボランティアや近隣の人たちが、一斉に三階建ての
専修大学の建物に避難したのだった。
 津波は来なかったのだが、警報が解除されるまでの2時間ほどは、
緊迫した雰囲気で、震災の恐ろしさを垣間見た思いがした。

 震度6ということだったが、それほど大きくはないものの、
余震は毎日、何度も、当たり前のように起きていた。
 海に近い地域では、地盤が沈下しているために、満潮になると
道路が冠水するし、道路の地割れがひどくなっている地域もある。
震災はまだ収束していないのだ。

 私が石巻で感じたのは「被災地は日々変わっている」ということ。
 震災が、まだ現在進行形であることもそうだし、一方でガレキの
片付けなどは、少しづつでも進んでいるからだ。
 被害が少なかった地域では、営業を再開する店もある。

 そんな変わり行く被災地では、災害支援のやり方も、変わりつつある時期にきているようだった。

 たとえば支援物資の配布や炊き出しも、再開したコンビニや飲食店などの営業妨害になってはいけないし、
かといって、家や職を失った人たちは、まだまだ物資や支援を必要としているし…。
 ボランティアの仕事も、場所ごとの状況の変化に応じて、きめ細かく対応していく必要があるということだ。

 ただし、ボランティアの仕事では、変わってはならないことがあるということも、忘れてはいけないと思う。

 石巻市内の「石巻焼きそば」という、おばあさんが細々とやっていたお店の、焼きそばが食べたいという、
近隣の人たちの話を聞いて、あるボランティア団体が動き「石巻焼きそばプロジェクト」として、
復興のシンボルにしようという話になったのだが、
 その「300食を焼こう!」というプロジェクトの話を聞いて、知り合いになったひとりのボランティアが、
ちょっと、それは違うと言っていた。
 奈良県出身で「たこ焼き屋」の彼は、自分の商売柄もあって、おばあさんの話をよく聞いてあげていて、
「おばぁちゃんな、そんなん、やりたないねん」というのだ。
 
 そうなのだ、ボランティアのやるべきことは、あくまでも被災者が望むことの手助けなのだと思う。
手助けがエスカレートして、ボランティア活動という名のイベント事に変わってはいけないと思うのだが…。

 被災地と、ボランティアと、これから、どんな風に変わっていくのだろうか…?
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by kawasemi-report | 2011-05-12 03:57 | 震災ボランティア | Comments(4)

宮城県の石巻に行ってきました(その4)

d0227858_20525085.jpg 同行のAさんと別行動をしていた日のこと、一人で歩いて聞き取りをしていると、疲れた顔で大きな荷物を持って歩いてくる女性に出会った。
 自分の家まで、その荷物を運んでいるというので、持って行ってあげることにすると、独り言のように彼女は話し始めた。
 どうやら、今は避難所にいるらしいのだが、自分の家の様子を見に来たのだという。そして、その家は借家で、大家さんは津波で亡くなってしまい、遠くに住む大家さんの息子が見に来て、借家はやめにして取り壊すと言われたらしかった。
 彼女の家は平屋で、津波に襲われてガレキだらけのその家は、建ってはいるものの、とても住める状態には見えなかった。
 「これから、どこに住んだらいいんだろう…」という彼女の話を、私は、ただ聞いているしか出来なかった。

 Aさんも、私と別行動をしている時に、たまたま声を掛けられた、片付けの手助けが必要な家で、とてもつらい状況の話に巻き込まれてしまったらしく、かなり落ち込んでいる時があった。
 でも、そんなAさんの話にも、私は、ただ聞いてあげることしか出来なかった。

 そして、震災からちょうど1ヶ月目の日、男手が無くて、玄関前の大量のヘドロとガレキを
片付けられないでいた家で、「どろ出し」の活動をしていた時に、サイレンが鳴って「その時」を告げられた。
 スピーカーで黙祷の合図をしたらしかったけど、遠くてよく聞こえず、かなり長い時間黙祷をしていた。
どろ出し作業に汗していた時だったので、私は少しボーとして、何も考えていない状態だった。それなのに、
その場所で長い時間眼をつぶっていると、訳もなく悲しい気持ちになってきて、訳もなく涙が出てきた。

 人が十人いれば、十通りの苦しみ、十通りの悲しみがある場所。

 震災から1ヶ月の石巻は、たくさんの悲しみに満ちた場所だった。

 同じ宮城県の被災地でも、場所によってかなり様子が違っていた。
 避難所でボランティアの応援が必要らしいということで、様子を見にいった南三陸町は、
コンクリートの大きな建物が少し残っている以外、ほとんどの建物は流されてしまって、
土砂とガレキの中に道だけが通っているという感じだった。

 何もかも流された、何もかも無くなった、そんな荒涼とした景色の中に立つと、
まったく言葉が出てこない。まったく、言葉も無くなった。
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by kawasemi-report | 2011-05-04 00:49 | 震災ボランティア | Comments(0)

宮城県の石巻に行ってきました(その3)

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 震災後すぐに石巻に入って活動を始めた「八ヶ岳ピースワーカーズ」は、
被災状況が確認されていない家々を、ローラー的に聞き取り調査をしながら、
行き渡っていない支援物資を届けたりしていた。
 ところが、私とAさんが石巻入りした頃には、そのローラー隊の役目を、
別の大きなボランティア団体に引き継いで、自分たちは、活動拠点も女川寄りの別の場所に移し、
まだあまりボランティアの手が入っていない、牡鹿半島の小さな集落などを支援していこうと、
準備を始めている所だった。

 また、短期間のボランティアの人たちの多くは、ボランティアセンターでマッドバスターズ
(泥やガレキを撤去するグループ)に組み入れられて、家の泥出しなどの肉体労働をして、
筋肉痛と「被災地の役に立った」という充実感と共に帰って行く。
 一方の私たちは、10日間の予定で、しかもローラー隊の後継ぎのようなつもりで行ったので、
ちょっと宙に浮いたような存在になってしまい「何をどうしたら役に立てるのだろう?」と、
手探り状態で、初体験のボランティアをスタートすることになった。

 そして最初の仕事となったのが、上の写真。

 奥さんの足がご不自由な年配夫婦の家の、玄関から道への動線が、
大量の土砂と、大量の丸太と、大量のガレキと、数台のクルマで塞がれていて、
「家から外へ出ることが出来ない」という情報を、ローラー隊から聞いたのだ。
 早速マッドバスターズに、丸太を除去するためのチェーンソーが必要なことなどを連絡して、
現地に入ってもらい、われわれも手伝っての撤去作業となった。
 そして、やっとのことで道が開き「一ヶ月ぶりに外へでた」と言った時の奥さんの顔は、
最初に様子を聞きに行った時とは別人のような笑顔だった。
 その顔を見た時、やっと「ひと仕事したな!」という気分になった。

 そんな事がきっかけで、ローラー隊とマッドバスターズの中間のような活動が、
いつの間にか私たちのミッションになったのだが、どうやら、
しっかりと機能しているように見えた石巻のボランティア組織も、
実は、セクション間での情報の流れがイマイチだたったりで、
「ドタバタしているんだな」と思えた。現地の混乱した状況では無理も無いのだけれど…。

 そして下の写真が「次の現場」

 やはり、大量の土砂と、大量の丸太と、大量のパレットと、大量の畳と、大量の肥料袋と、
大量のロール紙と、クルマと、etc、etc、etc、…、で埋め尽くされた、住宅地の裏通りで、
50m以上の区間が通行不能の場所だった。
 ここの撤去には数日を要したのだけど、実は、石巻市内のほかの場所と同様に、
この土砂というのがクセモノで、そこに肥料工場から流された肥料や、色々な汚物が、
汚れた海水とグチャグチャに混ざって、ペースト状のヘドロになっているから、始末が悪い。
 怪我をした所に付けば破傷風になるし、何といっても、臭いがヒドイのだ。
 その上乾けば粉塵となって舞い上がり、目にも、肺にも、よろしくない。

 被災地には「ニュースでは見えない事が起こっている」というのが実感だ。
ということで今回は、ここまで。
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by kawasemi-report | 2011-05-01 23:58 | 震災ボランティア | Comments(0)

宮城県の石巻に行ってきました(その2)

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石巻でボランティアのテントサイトとなった専修大学

 原村から石巻までは、佐久から高速道路に乗るルートで、
高速を乗り継いだまま、現地まで8時間ほどで行くことが出来た。

 目的地は石巻市の郊外、旧北上川のリバーサイドに建つ専修大学で、
その大きな駐車場には日本各地のナンバーを付けたクルマが停まり、
隣接するグラウンドの芝生には色とりどりのテントが張られていた。

 実は石巻に行ってみて初めて分かったのだが、この大きなキャンパスと、
石巻市の社協(社会福祉協議会)が、ボランティアを受け入れるための、
大きなウツワとして機能していたために、ここ石巻が、
今回の被災地の中では最大のボランティア拠点となっているようだったのだ。

 同行のAさんと、それぞれ小型のテントを張り、この地の棲家を確保してから、
校舎の3階で行われる夕方のミーティングに参加して、
少しだけ、ここがどういう場所なのか見えてきた。

 ボランティアを統括しているのは市の社協で、日本各地からやってきたボランティアは、
団体や会社単位から個人まで、総勢数百人を超え、
ローラー隊(各戸への聞き取りや物資配布)、マッドバスターズ(泥と瓦礫の片付け)、
炊き出し隊、医療チーム、リラクゼーションチームなどに分かれて、
毎日、市内の避難所や個人宅や不通の道路などへ出かけていき、
それぞれの分野の活動をしているのだった。

 そして次の日からボランティアの日々が始まったのだが、今回はここまで。

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by kawasemi-report | 2011-04-22 22:45 | 震災ボランティア | Comments(2)

宮城県の石巻に行ってきました(その1)

 以前から始めたいと思っていたブログを開設することにしました。

 その、記念すべき第1回なのですが、「かわせみ工房」のホームページでお知らせしたとおり、
4月4日から4月15日まで、宮城県の石巻市にボランティアをしに行って来ましたので、
そこで見たこと、感じたことをお伝えしようと思います。
 と言っても、あまりにも色々なことがあったので、何回かに分けて書いていくつもりです。

 さて、まずは「なぜ石巻に行くことになったのか」ですが…、

 震災が起こってすぐに考えたのは「あれだけ多くの家が壊れたのだから、
きっと多くの建築需要が高まった時に、大工さんの手が足りなくなるだろうな」ということでした。
 そして「その時がきたら行こうかなぁ」と漠然と考えていました。

 そんなある日、ニュースで映し出された被災地の映像の中に、
見覚えのある女性が、まだ物資が行き渡らない地域を回りながら、
聞き取りをしたり、物資を届けたりする姿を見つけたのです。

 その女性は、去年から私と家内が参加を始めた「八ヶ岳マルシェ」のメンバーの一人で、
宮城県の石巻に入って活動する「八ヶ岳ピースワーカーズ」というボランティア集団として、
震災後すぐに現地に入って、そのまま居続けているようでした。

 もくもくと被災者の支援活動をする彼女の姿を見て、私の中のスイッチが入りました。
「今の被災地には、今しか行かれない」「今行こう!」と…。

 そんな折、マルシェの発起人の女性から、私のご近所に住む養蜂家の方が、
自分のクルマで現地に向かうので…、と紹介され、自分自身が10日間生きていくための、
水や食料、テントなど大量の荷物と共に、同乗させていただくことのになったのでした。

 以上がボランティアに行くに至った経緯ですが、今回はここまで…。
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by kawasemi-report | 2011-04-19 10:59 | 震災ボランティア | Comments(2)