石巻での活動の前半は、専修大学のキャンパスにキャンプをしながら、毎日、
石巻市内の大街道という地区を中心に出かけて行って、泥出しやガレキの撤去をしたり、
緊急性のあるニーズの調査をしたり、といった内容の仕事をしていた。
ところが後半は、「八ヶ岳ピースワーカーズ」が、その拠点を牡鹿半島の付け根の辺りに移したのを期に、
私とAさんもそちらに移動して、新たな活動をすることにした。
牡鹿半島には入り組んだ入り江が多く、そこに点在する小さな集落をピンポイント的に支援していこう、
というのが、我々の新たなミッションとなったのだ。
そして私の毎日は「蛤浜」という小さな集落に出かけていって、ガレキの片付けや、マキ作りや、
簡単な大工仕事をして、一日をその浜で過ごすといった日々になった。
小さな入り江に15軒が暮らすその浜は、カキの養殖を業とする集落で、きっと「美しい漁村」
だったに違いないと思われた…。津波さえ来なければ…。
そう、津波によって浜にあったカキの処理施設などは流され、代わりに何処からか流れ着いた、
トラックのタイヤがギッシリ詰まったコンテナなどが打ち上げられていた。
家々は、斜面の上の何軒かは波は免れたものの、浜に近い方は、
基礎を残して完全に無くなったもの、メチャメチャに破壊されたものなど、壊滅的被害だ。
それでも人々は、斜面の一番上の集会所のような建物に寄り集まって、
山からの水をドラム缶で沸かして、行水的なお風呂にも入っていたりと、負けずに暮らしているようだった。
震災によってサバイバル状態となった今、街場の人より、ここの人たちのほうが強いのかも知れない。
私は、ガレキとなった家々の木材を片付けながら、お風呂のマキを作ったり、
家を失ったコーギー犬の「マリン」の小屋を作ってあげたり、
入り口がカーテンだったお風呂小屋にドアを付けたりと、木を扱う作業でお手伝いが出来て、
しっかりボランティアな日々をおくることが出来た。
浜の人たちも打ち解けてくれて、「お昼だよ!」などと必ず声を掛けてくれて、
集会所で食事をご馳走してくれた。今年から小学生の、シャイなKちゃんも遊んでくれたし、
ちょっと恵まれ過ぎたボランティアな日々ではあったけど…。
カキは種付けをしてから収穫まで3年はかかると言う。その前に、
海に沈んだ大量のガレキを引き上げなければいけないし、放射能の海洋汚染はどうなるんだろうか…、
はたしてこの浜は「美しい漁村」に戻れるのだろうか?
私が帰る前の日に、別れを惜しんでくれた「蛤浜」の人たちに、私は、
「お元気で暮らしてください」としか言えなかった。「頑張ってください」なんて言えなかった。
今回で震災ボランティアの話は終わります。また、一連の写真は、同行のAさんに提供していただきました。